ミジンコほどの価値もないんだけど、死んだらその価値もない

 

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 これで、この死にたい話はいったん終わりにしようと思うのだけれど、結局、なんで生きようと思ったのか、そもそもなんで死にたいのか、はっきりとはわからなかった。

たぶん、死にたいと思ったのは、自分にミジンコほどの価値もないと思ったから。

何をやっても失敗するし、いいところなんて一つもない。誰かを愛したいし、だれかに愛されたい。何のために生きているかわからない。だから、生きるのが嫌になった。

 

それで、もし、自分が死んだらどうなるのか、シュミレートしてみた。

 

まず、死因は、布団の中で、フルーツナイフで首を切って失血死の予定だった。

朝、母親が、起こしに来る。返事がないので、「どうしたの?」と布団をめくる。と、どうなるか、想像したら、中止した。

 

どうして死んでは、いけないのか、はっきり答えられる人は、少ないと思う。ずっと、僕は、どうしてみんな普通に生きていられるんだろうと、疑問だった。

世界なんて、クソだと思っていた。世界なんてクソ、自分もクソ。それでいいや、と開き直って、もう死にたい。クソ中のクソである。

死んだら、ほんとうのクソになるところだった。

 

本音を言えば、生きているだけで、ほめてほしい。死なずにいるだけで、世界の役に立っている、と言われたい。そして、これが本音だとしても、まぁ、生きていれば何の問題もないはずである。

しかし、生きるなら、それ相応の覚悟、特に、生きているからこその苦痛を受け入れる覚悟が必要だ。

今日も、生きよう。